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Vリーグについて

HOME  >  Vリーグについて  >  ヒストリー  >  第2章 すさまじい新日鐵、日立の黄金時代

Vリーグに至るまでのエピソード

2すさまじい新日鐵、日立の黄金時代

新日鐵の転落、そして復活

第1回リーグを制した新日鐵(当時は八幡製鐵、現在の堺ブレイザーズ)は、メンバーの世代交代の遅れから第2回以降低迷し、とうとう第4回大会後の入れ替え戦で住友軽金属に敗れ、実業団リーグ(のちのV1リーグ)に転落してしまった。

人気上昇中のバレーボールにあって、観客のほとんどいない地方の体育館を転戦する実業団リーグで戦うことは、ちょうどミュンヘンオリンピックの金メダルチームの主 将でもあった中村祐造にとって、屈辱の思いが強かったのではないだろうか。復活にかける新日鐵のスパルタ練習がこのときから始まった。夜遅くまで体育館の 灯りは消えることは無く、真夏の炎天下のダッシュやタイヤ曳きなど、その激しさは全国にとどろいた。

中央大、法政大、明治大など関東の名門大学出の選手を揃えた日本鋼管や松下電器に対して、無名の高校卒の選手ばかりであった新日鐵は、練習で対抗するしか なかったとも言える。そういった練習の中から、セッター柳本昌一(大商大附高)、199cmのセンター小田勝美(関西鉄道高)、195cmのエース田中幹保(姫路東高)、名レシーバー辻合真一郎(大商大附高)らの若き選手たちが、みるみる力をつけて行ったのである。

雌伏2年、若返り逞しくなって日本リーグに戻ってきた新日鐵は、第7回大会(1973年/昭和48年)でいきなり10戦全勝、2回目の優勝を遂げた。ベスト6に主将 の中村と小田、田中の3人が選ばれたが(小田はスパイク賞も受賞)、小田は21歳、田中は18歳という若さであった。

優勝を決めた専売広島との試合後の主将・中村が語った次の言葉が残っているが、2年間の屈辱とリベンジにかける激しい練習の思い出、そして燃える男の誇りが凝縮されている。

『男の意地ですよ・・・。みんな苦しい時期を通ってきた。若い選手たちも、うちが一番苦しいときに入ってきた選手ばかりです。この優勝は誰がと言うことではなくて、みんなが勝ち取ったものです。』

第6回大会で全勝優勝した日本鋼管は、大古誠司(このシーズンからサントリーに移籍)が抜けた穴が大きく、森田淳悟、嶋岡健治らの活躍があったが、5勝5敗で3位に転落。代わって成長著しい西本哲雄、世界の名セッター猫田勝敏を擁す専売広島が2位となった。

新日鐵の黄金時代

復活していきなり全勝優勝した新日鐵の強さは、厳しい練習によるものであったが、それを支えたのはリーグ一の若さであった。「燃える男」「鉄のブ ロック」と形容され、高さとパワーで圧倒する小田、田中のほかに、守りではセッター柳本昌一22歳、「小冠者」辻合18歳らが、レギュラー選手として活躍をした。

闘将中村に率いられ、伸び盛りのこれらの選手が中心となって、第7回大会(1973年/昭和48年)から第10回大会(1976年/昭和51年)まで4連覇を達成し、新日鐵の黄金時代を築き上げた。

1976年(昭和51年)のオリンピックは、カナダ・モントリオールで開催された。前回のミュンヘン大会で金メダルをとった日本チームの活躍が大いに期待されたが、4位に終わり惜しくもメダルを逃がした。オリンピック出場権を取れるかどうかという現在の状況からは想像しがたいが、東京大会で銅メダル、メキシコ大会では銀メダル、そしてミュンヘン大会で悲願の金メダルと躍進して行った「バレーボールの強豪・日本」がメダルを逃したことは大変なショックで、 女子が2度目の金メダルを取っていたこともあって、オリンピックが終わって帰国するのが辛かったという選手の話が残っている。

この大会にも、新日鐵からは小田、田中、柳本の3選手が参加している。小田、田中の両選手は、ミュンヘン大会後の新生ジャパンのメンバーに早くから選ばれ、中心選手として活躍していた。

特に、田中は高校卒業したばかりの19歳で全日本入りし、その後ロサンゼルス大会(1984年/昭和59年)まで10年以上の間、全日本のエースとして、また「世界の大砲」として活躍した。

現在でも、テレビ・雑誌等で「世界の大砲」の愛称をつけてもらっている選手は多くいるが、名実ともに「世界の大砲」に相応しい活躍をし、世界に恐れられた選手は大古誠司と田中幹保の二人だけといっても良いだろう。

新日鐵は第11回大会(1977年/昭和52年)こそ主将・森田に率いられ、嶋岡、丸山孝に加え、中央大から新加入したエース花輪晴彦が大活躍の日本鋼管に優勝を奪 われたが、1976年(昭和51年)入社の岩田稔(星陵高)も戦力に加わって、第12回大会(1978年/昭和53年)から第14回大会(1980年/昭和55年)も3連覇して、黄金期を続けた。

特に、第12回大会から第14回大会までの3連覇では、各回とも全勝の完全優勝であった。

個人賞も小田、田中、岩田がスパイク賞、ブロック賞を次々と独占し、サーブ賞、レシーブ賞の中村良二、辻合、柳本らとともに、ベスト6の常連となった。

新しいスターの誕生

新日鐵が輝かしい黄金時代を続けている間にも、次の時代を飾る新しいスーパースターが他のチームで次々と誕生していた。

富士フイルムには、法政大から吉田重誉、東海大四高から山田修司が加入し、それぞれ第8回大会(1974年/昭和49年)、第9回大会(1975年/昭和50年)でスパイク賞に 輝き、新人賞を取ってリーグにデビューしている。山田はその後も富士フイルムのエースとして、そして日本のエースとして長く活躍した。

富士フイルムには、ほかに御嶽和也、杉本公雄も加入し、その後の富士フイルムの黄金時代の幕開けに活躍した。日本鋼管には、中央大出身の小林美穂、丸山、加藤豊、花輪らが加わり、セッターの西岡秀人(大商大附高)とともに、チームの若返りを図っていた。これが功 を奏し、第11回大会で5度目の優勝を遂げるが、第12回大会では主力が次々と故障欠場し、 再び新日鐵に王座を譲るのであった。名門日本鋼管の優勝は、これが最後の優勝となった。

新旧交代の流れに後手を打ち、第9回大会と第10回大会を実業団リーグに転落。第11回大会から復活した松下電器にも長浜商工高から藤田幸光が入り、第13回大会(1979年/昭和54年)の新人賞に輝いている。大商大から入ったセッター志水健一とともに、ベスト6にも選ばれている。

日本鋼管から移籍の大古、渡辺輝明や富士フイルムから移籍の岡野昌弘らが中心になって創部し、わずか2年で日本リーグ入りを果たしたサントリーにも、次第 に生え抜きの選手が育ちだしていた。素晴らしいジャンプ力を誇った松尾正剛(琴浦高)や前田敏彦(東海大)である。前田は第13回大会で、新人賞こそ松下 電器の藤田幸光に譲ったが、ベスト6に選ばれる活躍をした。

サントリーは、日本リーグ昇格後一度は実業団リーグに転落したが、第13回大会から復帰した。この年の5月に、都市対抗全日本選手権大会(現在の天皇杯皇后杯黒鷲旗全日本選手権大会)で優勝、初の全国大会制覇を果たしている。

また、サントリーは第10回大会にブラジル人のアギアル・ジンクを出場させた。これは、日本リーグ初の外国人選手である。

ルール改正

バレーボールのルール改正は少なくないが、戦法を変えてしまうような改正はそう多くない。その中で、第10回大会(1986年/昭和51年)から採用された新ルールは、戦法を変える大きなものであった。その新ルールは、ブロックのワンタッチをカウントしないというものと、左右のアンテナを20cmずつ内側に移動させるというものであった。

特に、ブロックのワンタッチをカウントしないという新ルールは、ブロックの重要性を飛躍的に高めた。そして、シャットアウトしなくてもワンタッチさえ取 れば味方のチャンスにつなげる機会が増え、センターの役割が従来にも増して大きくなった。

この新ルールを有効に生かしたのも、新日鐵であった。第12回大会の田中(第12回大会ブロック賞)、小田(第11回、第13回、第14回大会ブロック 賞)、岩田による「鉄のブロック」はセット平均6.71をマークし、2位の富士フイルムの4.71以下、他チームを圧倒している。第13回大会でも5.67で、同じく2位の富士フイルムの4.83を大きく上回ったが、この数字以上に新ルール下でのブロックの威力を発揮した。

一方、セッターを中心にコンビバレーで戦ってきた全日本チームにとって、このルール改正は大変厳しいものとなった。モントリオールオリンピックは、ミュンヘン金 メダリストが12名中7名を占めたメンバーで戦い、やや新旧交代にも遅れた嫌いはあるが、新しい体制で臨んだ次のモスクワ五輪の予選敗退もあわせて見たとき、コンビバレーが高さとパワーのバレーに屈し始めた時期でもあった。

日本リーグは、この時期に運営面でもいくつかの改革をした。第14回大会から、従来の6チームから2チーム増えて、8チームとなった。さらに、第15回大会からは3回戦総当たりとなって、一挙に試合数が増えていった。

日立

女子は、第1回大会、第2回大会と連覇した日立武蔵(第9回大会から日立に改称)が、1973年(昭和48年)の第7回大会から1977年(昭和52年)の第11回大会まで5連覇と他チームを圧倒し、第2期黄金時代を築き上げた。

高山鈴江、生沼スミエらが引退したあとに、荒木田裕子(角館南高)、矢野広美(増穂商)、高柳昌子(中津南高)、吉田真理子(久喜高)らを第7回大会から 加入させた日立は、倉紡倉敷から移籍の大型大砲の白井貴子(片山女子高・第4回大会で倉紡倉敷から出場しベスト6に選ばれる)がそのパワーをフル回転させて、セッター松田紀子(釧路商)、レフト岡本真理子(東大阪高)、加藤きよみ(那珂湊一高)、会田きよ子(共栄学園高)、セッター金坂克子(習志野高)と 隙のない層の厚さを誇る布陣で、まず1973年(昭和48年)の第7回大会で5年ぶりに全勝で優勝した。

さらに、第10回大会(1976年/昭和51年)からは、センター江上由美(松蔭高)も加わった。この年、江上は新人賞に輝いている。この層の厚さには さすがのユニチカ貝塚やヤシカも対抗できず、これ以後しばらく日立の快進撃をどこも止められなくなった。

第7回大会からの5連覇では、ベスト6の5人までは日立の選手が占め、一人だけ他のチームの選手が選ばれるのが精一杯という独走状態が続いた。(第10 回大会だけは、三洋電機の前田悦智子、ユニチカ貝塚の横山樹理の二人が選ばれた。)もちろん、第8回大会で鐘紡に1敗しただけで、あとは全勝を続ける完全 優勝ぶりであった。

女子のバレーボールでは、東京オリンピックを挟んで当時のニチボー貝塚が作った258連勝の記録があるが、記録は及ばないがそれに匹敵するチームが出来上がっていた。

このチームを作り上げたのは、山田重雄である。メキシコオリンピック、ミュンヘンオリンピックと銀メダルに終わったあと全日本監督に就任した山田重雄は、日立の監督をコー チの米田一典に任せ、オリンピックで金メダルを取るという目標にまい進した。そして、日立の白井、松田、岡本、加藤、荒木田、矢野、高柳、吉田、金坂の9 選手にヤシカの名センター飯田 高子、三洋電機からレフトの前田悦智子(ときわ松高)、ユニチカ貝塚のエースの横山樹理(博多女子高)の3名を加えたメンバーで、金メダルの夢を見事に実 現させた。

この山田全日本は、オリンピックの前々年の1974年(昭和49年)の世界選手権、オリンピック翌年の1977年(昭和52年)のワールドカップも制し、世界三冠を達成する強さであった。

日立単独チームに近いチームで世界一を取るのだから、国内無敵は揺るがないのも当然と言え、黄金時代は続いた。

知将・山田重雄

日立の第2期黄金時代を築き、その日立中心のメンバーの全日本を率いて、モントリオールオリンピックで2度目の金メダルを実現させたのは、山田重雄であった。

三鷹高校の監督から日立の監督に転じた山田は、「俺について来い」で金メダルを取った鬼の故・大松博文の根性・スパルタとは正反対とも言える知将であった。

海外を含む大変な量の文献を読み、自チームの選手のあらゆるデータを蓄積・分析と研究を重ね、理詰めの戦略を立て、さらに相手チームの徹底研究をするなど、知将と呼ばれるに相応しい監督であった。

選手たちに「練習とは、科学的な根拠を求めるための手法なのだ」と、叩き込んだという。

特に、目先のことや自チームのことよりも、常に8年後、12年後と中長期的・計画的な戦略を持ち、また常に世界を見据えていた指導者という点で卓越していた。

その情熱と知性から、多くのアイデアも生まれた。モントリオールオリンピックで金メダルを取った直後からロスアンゼルスエンゼルスというジュニアチームを育成し、 その中から天才セッター中田久美を発掘したりした。また、レオタード風のユニフォームを選手に着せたのも、山田であった。レオタード風ユニフォームは、時代を先取りしすぎていたのか選手に不評で続かなかったが、アイデアマンの山田のエピソードの一つである。

全日本の監督を退いた後も協会で活躍したが、1998年(平成10年)2月に急逝した。バレーボールの復活のための21世紀プランを担当していたが、大切なときに惜しい人材を失った。

山田のエピソードをもう一つ、山田自身の書いたものから紹介する。毎回の日本リーグのプログラムに、「かく戦わん」という各チームの監督の決意が掲載されるが、山田のそれは山田の面目躍如である。

『監督就任以来はじめてコートから離れ、病気の母のやつれた顔を見ながら、いつしか第6回リーグへと思いをはせる、メキシコ、ブルガリアの世界選手権、次 いでミュンヘンと三度悲願を果たせぬ女子バレーを、この日本リーグを足場に、どう失地挽回すべきか・・・。以下略』(第6回大会より)『私は季節の中で秋が最も好きだ。故郷、静岡から送られてくるミカンの味、我が家の庭の柿のなんともいえぬ色彩。そして勤務地である武蔵野の静寂。これら 秋の実りとおちばは、勝負に携わる者が常に味わわなければならない孤独にぴったりだ。

もう一つの、秋の楽しみの一つに日本リーグプログラムに載せる「かく戦わん」の原稿を書く楽しみがある。拙文ではあってもこれに筆を走らせる時、一年の反省と将来の構想が整理でき闘志となって現れる。…以下略』(第7回大会より)日立の第2期黄金時代と世界三冠達成の最強全日本女子チームは、このとき書かれた「かく戦わん」をそのとおり実現したような形で直後から始まっている。

鐘紡、ユニチカの反攻

山田監督に率いられ、常勝・無敵を誇った日立と全日本も、1978年(昭和53)年の世界選手権で敗れたのを機に、白井や松田らの一時代を築いたヒロインたちが引退したことで、一時的なかげりを見せる。

ユニチカは、名門復活をかけて、塩川美知子(四天王寺高)や新鋭の横山樹理で、打倒日立を目指すが届かず、50年から3年間、2位の座に甘んじる。ヤシカは飯田、浜恵子(中村高)の後が続かず挑戦者としては転落していった。三洋電機も前田、小山光枝(吾妻高)で上位を狙うが、やはり力不足であった。

富士フイルムでは、須藤佳代子(八王子実践高)、池知晶代(土佐女子高)の活躍が目立ったが、全体的に小粒であった。そうした中で、鐘紡がレシーバー斉藤春枝(東京女子体育大)、センター清水睦子(鈴鹿高)、レフト奥嶋桂子(三田尻女高)、セッター堀江香代子(鈴鹿高) ら、新旧のバランスの取れた戦力で徐々に力を付けていき、第11回大会で3位に食い込み、次の第12回大会でとうとう日立の6連覇を阻止し初優勝を飾るの であった。斉藤は引退していたが、清水、奥嶋、堀江に加えて、橋口英子(鹿児島女高)、真方佐綾(大女短大附高)らが活躍した。

第13回大会では、ユニチカが8年ぶり4回目の優勝を遂げた。全日本のエース横山主将にサウスポー水原理枝子(鳥取家政高)の攻撃陣に加えて、セッター小 川かず子(池坊短大)、伝統の拾ってつなぐバレーの要に守備の天才広瀬美代子(舞子高)を得て、念願の優勝を果たした。緒戦の日本電器戦を落としたが、2戦目からセンター石川嘉枝(桜台高)が復帰すると調子に乗り、9勝1敗の好成績での優勝であった。

ユニチカは、次の第14回大会も全勝で制覇した。

圧倒的な強さでリーグを支配し続けた新日鐵と日立の黄金時代は、こうして幕を閉じていった。

第14回大会からはチーム数が6チームから8チームに増え、さらに第15回大会からは3回戦総当たり方式に変わるなど、飛躍的に試合数が増えていった。 同時に、それまで開催されていたNHK杯や天皇・皇后杯選手権などが整理統合され、いよいよ日本リーグが真のチャンピオンを決める唯一の大会へと成長発展 していった。