Vリーグに至るまでのエピソード
第3章富士フイルム時代の幕開け
新日鐵の連勝記録がストップ
第15回日本リーグから3回戦総当たり制が始まった。また、オリンピックなどの試合方式を国内リーグでも採用した連戦方式で日程がスケジュールされた。
飛躍的に増える試合数と過密スケジュールに、各チームの監督の大会前の決意にも、それに関することが多く取り上げられている。
3年連続完全優勝を達成し、34連勝中の新日鐵の柳本昌一新監督(兼セッター)も、「故障者を出さないよう一戦一戦を戦う」との決意を述べている。ところ が皮肉なことに、柳本自身がシーズン開幕前にアキレス腱を切断して欠場してしまった。これが影響したのか、第2戦目に実業団リーグから昇格したばかりの住 友軽金属にまさかのストレート負けを喫し、連勝記録は35でストップした。住友軽金属は、この年創部20周年の節目を迎えていた。7年ぶりの日本リーグ に、安藤文彦ら早稲田大出身者を中心の選手たちは、攻守にバランスのとれた戦いぶりで健闘したが、勝ったのは王者新日鐵の連勝記録を止めた大金星のこの1 勝だけで、再び実業団リーグに転落し以後昇格することはなかった。ちなみに、安藤はこのリーグでサーブ賞を獲得している。
新日鐵は、その後も嶋岡監督率いる日本鋼管やサントリー、富士フイルムにも星を落としたが、優勝の最有力候補であることを誰も疑わなかった。ベテラン小 田勝美、田中幹保の2枚看板に加え、中堅に成長した岩田稔、小牧勝則にサーブ・レシーブの名手辻合真一郎が健在で、強打の新人の緒方良も加わり、さらに柳 本の穴を埋めたセッターの森石信也も一戦ごとにリーグの雰囲気に慣れ、力をつけていったからである。12試合を終えたところで8勝4敗となったが、その後 8連勝して首位を走っていた富士フイルムと16勝4敗同士で並び、最終戦に2度目の4連覇をかけるところまで調子を戻していた。
若さあふれるプレーでV1を
第12回大会3位、第13回、第14回大会は連続して準優勝と、着実に力を付けてきた富士フイルムの井原監督は、第15回大会の過密スケジュールを前に、「若さあふれるプレーでV1を」を合言葉にして、思い切った若手の起用で乗り切る作戦を立てていた。
その作戦通り、ベテラン佐藤哲雄やセッター御嶽和也、保田保則を控えに廻し、2年目のセッター三原正一、センター海老原真二、新人の蘇武幸志、五月女俊文 を初戦の専売広島(現JT)戦から使ってきた。専売広島は、監督の猫田勝敏がすでに病魔と闘いながらの采配であったが、村上情次、青山信夫の両エース、セ ンター南正義、セッター小田雅志という布陣で、定位置になっていたリーグ3位から一つでも上の成績を目指す強豪であった。井原の若手起用作戦は黒星ス タートとなって実らず、逆に専売広島はうまく波に乗って、1回戦終了時点で6勝1敗と首位に立つ好対照を見せた。
初戦でつまずいた富士フイルムだが、主将の山田修司のもとに徐々に調子を上げていった。選手層の厚さをうまく生かし、ベテランと新鋭の総力戦で、サントリーとのフルセットの逆転勝ちなどもあって、中盤では専売広島と首位に並んだ。
新日鐵がこれに続き、前田敏彦、松尾正剛の両エース、新人の鳥羽賢二と203cmの伊坂哲のセンターとセッター松倉隆、大古誠司に代わる桑田美仁を揃えた サントリーと、丸山孝、西岡秀人のツーセッターに今牛若丸と言われ「花輪ブーム」で一時代を築いたベテラン花輪晴彦、新鋭岩月昇平を擁する日本鋼管を加え た上位5チームによる大混戦のリーグとなった。
その中で、富士フイルムは中盤戦を終えたところで11勝3敗で単独首位に立ち、終盤戦のスタートの日本鋼管戦で敗れたが、その後再びサントリーに対しての大逆転劇を含む5連勝を果たし、8連勝の新日鐵とともに16勝4敗となり、最終戦に優勝をかけた直接対決が実現した。
好スタートを切った専売広島は、中盤から息切れし、またしても3位に甘んじることになった。
富士フイルムの初優勝
第15回大会の優勝を決める最終戦は、1982年(昭和57年)3月14日に超満員の大観衆を飲み込んだ東京体育館で行われた。5強による戦国リーグを勝ち抜き、16勝4敗で並んだ新日鐵と富士フイルムの対決に場内は異様な雰囲気に包まれた。
戦前の予想では、前年までに3連覇を果たし、このリーグでも序盤の不調から立ち直り8連勝で優勝決定戦まで持ち込んだ王者新日鐵が有利というものが多かった。
下馬評を覆して初優勝に燃える富士フイルムは、三原、海老原をスタメンからはずし、セッター御嶽、センターに佐藤、山田主将、エースにサウスポーの杉本公 雄と松岡誠一らと新人賞の呼び声の高い蘇武というベテラン中心のメンバーで臨んできた。リーグを通じて若手への切り替えをテーマとして戦った井原監督も、 初優勝の夢はやはり百戦錬磨のベテランの力に託したわけだ。
試合は、第1セットのスタートから富士フイルムの速攻と移動攻撃が爆発して15-5と先取した。第2セットも中盤までは8-7と富士がリードしたが、新日 鐵もここで意地を見せて8連続得点で8-15で取り返した。しかし、新日鐵の反撃もそこまでで、初優勝に一丸となった富士フイルム が15-5、15-6で3、4セットを連取して、ついに初優勝が決まった。蘇武の好守から松岡がレフトからスパイクを決め15点目を取った瞬間、東京体育館に陣取った約2千人の富士フイルムのグリーンの応援団は歓喜に包まれた。
こうして日本鋼管と新日鐵がほぼ独占してきた日本リーグの王座に新しく富士フイルムが加わり、華々しい富士フイルム時代の幕が上がり始めた。ただし、富士フイルム時代の完全な幕開けは第17回大会からになる。
次の第16回大会は、第15回大会に引き続き大混戦のリーグとなった。新日鐵と日本鋼管が4敗同士で並んだが、新日鐵がセット率で上回り、再び王者に返り 咲いた。日本鋼管は、花輪、丸山にレシーブ賞の野村健二、新人賞をとった笠間裕治が活躍した。笠間はブロック賞も取って、ベスト6にも選ばれた。
前年優勝の富士フイルムは3位に留まった。
なお、第16回大会では、日本電気(現:NEC)が始めて日本リーグに昇格している。
バックアタック戦法
日本リーグでバックアタックを戦法として最初に取り入れたのは、松下電器の藤田幸光と言われている。
今ではセッター対角のポジションにスーパーエース(現:オポジット)と呼ぶ選手がどのチームにもいて、この選手にボールをどんどん集め、前衛の時はもちろん、後衛にいても、 レフトからもセンターからもライトからもスパイクすることは、当たり前の戦法となっている。バックアタックは、スーパーエースだけでなく、さらに男子だけ でなく、女子の選手もどんどん打つようになってきている。
なお、スーパーエースという呼び方もそれほど古いものではない。それまでは、セッター対角はレシーブの名手が勤めるポジションであった。
藤田が始めたころのバックアタックは、コンビバレーの中の戦法として使われたものだった。第13回大会(1979年/昭和54年)で新人賞を取って、華々 しいリーグデビューをし、「藤田ブーム」と言われるスターになった藤田であるが、その藤田のバックアタックもコンビバレーの中で使われたものであった。打 数も現在のように多用はされていなかった。ちょうど、現在の女子で使われているような使い方であった。
ちなみに、当時は「コンビネーションバレーの完成」をほとんどのチームの監督が口にしていて面白い。
富士フイルムの黄金時代
初優勝の翌年の第16回大会では3位に甘んじた富士フイルムは、第17回大会の1983年(昭和58年)が会社創立50周年ということもあって、「何が何でも優勝」を掲げて大会に臨んだ。
27歳と脂の乗り切った山田主将を中心に、日体大出の三橋栄三郎、法政大出の岩島章博の2年目コンビを加え、蘇武、海老原の3年目コンビ、ベテラン杉本、 御嶽、三原と層の厚さと全日本選手6人を持つ豪華さはリーグ随一を誇るチームとなっていた。
第17回大会は、開幕当初から波乱含みのゲームが目立つリーグとなった。粘りあるレシーブとスピードあふれるコンビバレーで他を圧倒する富士フイルムを 追って、前回の覇者新日鐵、東海大出の新人奥野浩昭(この年の新人賞)を加え、鳥羽(同ブロック賞)、伊坂のブロックもさえるサントリー、藤田、志水、鶴 徹朗らの松下電器、花輪、岩月、加藤豊らの日本鋼管の5チームのダンゴ状態となった。
ベテランの多かった日本鋼管は、中盤以降息切れしてまず脱落していった。ついで松下電器も落ちた。最終日の前日にライバルのサントリーと対戦した富士フイルムが3-1で勝利し、苦しみながらも2度目の優勝を達成して会社創立50周年に花を添えた。
そしていよいよ富士フイルムの黄金時代に突入していった。第18回大会からはセッターに米山一朋(法政大)、第19回大会からは熊田康則(法政大)と川合俊一(日体大)と成田浩(弘前工)、第20回大会からは海藤正樹(東海大)と、次々と補強に成功し、富士フイルム時代を磐石にしていった。
第18回大会(1984年/昭和59年)は、4戦目の新日鐵戦に1敗しただけで、完璧に近い形で2位のサントリー以下を突き放して3度目の優勝を果たした。サントリーは、カナダからポール・グラットンとテリー・ダンロックの二人の外人を加え、5月に行われた都市対抗全日本選手権(現在の黒鷲旗)で2度目の 優勝を果たし、日本リーグでも初優勝を狙っていたが、充実した富士フイルムの前に3戦全敗で敗れ去った。富士フイルムは第21回大会(1987年/昭和62年)まで、史上初めての5連覇を達成し、黄金時代を謳歌するのであった。
外国人選手枠ルールの決定
東京オリンピック(1964年/昭和39年)での、女子の金メダル、男子の銅メダルから始まって、ミュンヘン(1972年/昭和47年)の男子、モントリオール(1976年/昭和51年)の女子が金メダルを取り、常に世界のバレーボールを牽引してきたため、バレーボールの後発国の選手をチームに入れ ることは、あまり問題にならなかった。
第10回大会にサントリーが初めてブラジル国籍のアギアル・ジンクを出場させたときも、それほどの実績を残さなかったこともあって、問題とはならなかった。
しかし、1984年(昭和59年)の都市対抗全日本選手権で、ポール・グラットン、テリー・ダンロックの活躍で、サントリーが2度目の優勝を果たしてから、ルール化の必要性が議論になりだした。女子では、イトーヨカドーやダイエーなどの新興チームが短期間でメンバーを揃える手段として、アメリカ選手を中 心に何人かの選手を出場させていた。
旧ソ連を筆頭に、東ドイツやブルガリア、ポーランド、ユーゴ、チェコなど、東欧諸国の国々に強豪が偏っていた世界のバレーボール地図も、昭和50年台の初めころにはアメリカやイタリア、ブラジル、オランダ、キューバなどへの普及が進んで、様相は変わってきていた。男子は、モスクワオリンピック(1984年/昭和59 年(結局日本は不参加))の予選で敗退し、世界のレベルが高くなっていることを実感せざるを得なくなっていた時期でもあった。
日本リーグのレベルアップと世界のレベルに取り残されないことと、安易なチーム作りで日本選手の強化の障害とならないことなどの両面の議論の中で、1985年(昭和60年)5月に、「リーグ外人登録選手は、実行委員長が認めた場合は2名まで、チームの構成員として試合に出場できる」という規程が出来て、第19回大会 (1985年/昭和60年)から適用されることになった。
しかし、男子は富士フイルムが、女子は日立が、外人選手抜きで圧倒的な強さを発揮していた時期であったので、しばらくは外人を積極的に採用するチームは少なかった。
外国人選手については、リーグの大きな目的である「日本選手の強化」にプラスになるかどうかが常に議論になっており、ルールもその後何度か改正されてきて、「男女とも1名に限り出場できる」という現在のルールに至っている。