SVL/JVLについて

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Vリーグに至るまでのエピソード

6バルセロナ世代の活躍

マスコットネーム

再びバレーボール熱が高まるのに合せて、日本リーグでも大きな改革が始まった。

まず、第24回大会(1990年/平成2年)から、チームと個人賞受賞者に対して、賞金が出されることとなった。(ちなみに、優勝チーム1,000万円、準優勝チーム500万円、個人賞は50万円~20万円などであった。)

オリンピック憲章から「アマチュア」の言葉が削除されて16年経ち、スポーツに商業主義の波が強く押し寄せてきていたが、全チームが企業チームから構成され、社員選手であることが日本リーグの登録条件となっていた時代に、チーム賞だけでなく個人にも賞金が出るようになったことは、大きな変化であった。優勝した新日鐵をはじめ、賞金を獲得した各チームは、どのような形で賞金を分配・使用するか、今後の前例ともなるだけに悩みながら慎重に決めたといわれている。

さらに、次の第25回大会(1991年/平成3年)を迎えるにあたり、チームにチーム愛称をつけることと、ロゴマークを決めることになった。

プロ野球や一部のスポーツ、例えばアメリカンフットボールなどでは、チーム愛称をつけることが早くから行われていたが、バレーボールでは始めての事であり、各チームとも命名にいろいろと知恵を絞った。

下表は、第25回大会出場のチームの愛称の一覧である。

男子 女子
チーム名 チーム愛称 チーム名 チーム愛称
新日鐵 ブレイザーズ 日立 ベルフィーユ
サントリー サンバーズ イトーヨーカドー ウイングス
NEC ブルーロケッツ NEC レッドロケッツ
JT サンダーズ ユニチカ フェニックス
富士フイルム プラネッツ 小田急 ジュノー
象印 タフボーイズ ダイエー オレンジアタッカーズ
東レ九鱗会 アローズ 東芝 シーガルズ
日新製鋼 ドルフィンズ 久光製薬 スプリングス

バレーボールチームらしく、飛ぶ、打つ、跳ねるなどのイメージのものが多いが、会社や製品からイメージしたものなどもあって、苦心の跡が感じられる。

チーム愛称が決まったことによって、応援やチームグッズ、チームカラーなどにチームの個性を出しやすくなっただけでなく、華やかさも加わっていった。

内定選手の出場を認める

第26回大会(1992年/平成4年)から、翌年入社予定の内定選手が日本リーグに出場できることになった。

12月の全日本インカレ終了から翌年5月の黒鷲旗大会まで、大会出場の機会がなくなる選手にチャンスを与えることが主たる目的であったが、人気スター選手を早くリーグに出場できるようにして、盛り上がってきたバレーボール人気を一層高める狙いもあったといわれている。新ルールが始めて適用された第26回大会で、女子では目立って活躍した内定選手はいなかったが、男子では東レの内定選手の泉川正幸(日体大)とNKKの 内定選手の竹内実(中央大)がレギュラーとして出場して大きな活躍をした。泉川はサーブ部門で4位、スパイク決定本数部門でも4位と健闘し、竹内もサー ブ部門で1位(サーブ賞)に輝き、スパイク決定本数部門でも9位とすっかりチームの主力となった。泉川は新人賞を取るだけでなく、ベスト6にも選ばれた。

新日鐵が王座奪還

史上初の5連覇を達成した富士フイルムにもようやく衰えが見え始め、代わって王者に就いたのは新日鐵であった。大阪商大から豪打楠木孝二郎、猫田以来といわれる名セッター真鍋政義、ガッツ溢れるセンター植田辰哉を相次いで補強し、名脇役・江原正(順天堂大)や職人センター・榊原彰男(大同高)の5人を、すっかり貫禄をつけた田中幹保プレーイングマネージャーがまとめて、第22回大会(1988年/昭和63年)を16勝1敗で制した。田中幹保は、柳 本昌一から監督を引き継いで、3年目にして初めて監督としても優勝を経験したのである。

新日鐵にただ一つの黒星をつけた富士フイルムは、岩島章博がスパイク賞を取り、三橋栄三郎、杉本公雄らが頑張り2位を死守したが衰えは隠せず、代わって日本電気(現NEC)が急速に力をつけてきていた。

翌23回大会は大混戦のリーグとなった。2回戦総当たりを終わったところで、日本電気が11勝3敗で首位に立ち、新日鐵とJTが10勝4敗、富士フイルムが9勝5敗となり、この4チームで4強リーグが行われた。

この大会の順位決定ルールは、最初の2回戦総当たりの成績で上位4チームを決め、4チームによる最終順位決定リーグの成績を2回戦総当たりの成績に加算して決 めること、上位2チームが勝率で並んだ時は、2日後にプレーオフを行って優勝を決める、というものであった。(第21回大会から第24回大会までこの方 式で行われた。)最終順位決定リーグの2日目を終わったところで、各チーム1勝1敗となり、日本電気の首位は変わらなかった。そして最終日の3月4日(日)大阪城ホールで、日本電気が初優勝をかけて新日鐵と対戦した。

初優勝のかかる日本電気は、1セット目こそ13-15で落としたが、15-1、15-12と連取し、優勝に王手をかけた。しかし、ここから2セット連取されまさかの逆転負けを喫し、通算12勝5敗で並ばれ、史上初のプレーオフに持ち込まれた。

初2日後に再び大阪城ホールで行われたプレーオフでは、新日鐵がストレート勝ちして連覇を果たし、日本電気の悲願の初優勝はお預けになった。

新日鐵は個人賞の上位を占める選手は少なく、チーム成績でもスパイク部門4位、ブロック部門も4位(1位はともに日本電気)であったが、6人の役割が明確でチームワークが良く、粘り強い戦いと勝ち方を知っている強みを発揮したのであった。

新日鐵の3連覇と日本電気(男子)の初優勝

第24回大会(1990年/平成2年)で、スーパースター中垣内祐一(筑波大)が華々しく登場した。

5月に行われた黒鷲旗全日本選手権でいきなり新日鐵のエースとして社会人選手デビューを果たし、最高殊勲選手賞(黒鷲賞)と新人賞(若鷲賞)を手にし、新日鐵の黒鷲旗大会3連覇に貢献した中垣内は、翌年1月に開幕した初めてのリーグでも打ちまくり、予選リーグ14試合だけでも1004本打って551 本決める活躍を見せて、最高殊勲選手賞、猛打賞、新人賞、ベスト6を取って、新日鐵の3連覇に大きく貢献した。

第7回大会(1973年/昭和48年)から18年にわたって活躍し、7回のMVPに輝き、14回のベスト6に選ばれるなど輝かしい成績を残した田中監督は、後継を託すに十分な中垣内の活躍を見て、チームの3連覇を花道に現役引退をしたのであった。

あと一歩のところで苦杯を飲み続けてきた日本電気が、悲願の初優勝を遂げたのは、第25回大会(1991年/平成3年)のことである。

日本電気男子バレーボール部は、そのルーツを戦前にさかのぼるほどの長い歴史を持っているが、実業団での活動が長く、日本リーグに昇格したのは第16回大会(1982年/昭和57年)のことである。一年で降格したがすぐに復活してからは、着実にチーム力を向上させてきていた。オールラウンドの寺廻太(明治大)、セッター柳田勝行(駒沢大)、センター長谷部三男(藤沢商高)、丸山輝久(高崎商高)などが日本リーグに定着できるチームの基礎を築いていったが、 成績はBクラスに留まっていた。そこに、第21回大会から楊成太(東海大)、金子敏和(明治大)、翌22回大会から中西弘之(東海大)、中村貴司(早稲田 大)、23回大会から泉水智(東海大)、24回大会から大竹秀之(法政大)らが加わり、一挙に優勝を狙えるチームへと飛躍していった。

寺廻が監督に就任した第22回大会では、ベテラン長谷部や新人賞に輝いた中西らの活躍で、初めて4位に食い込んだ。

続く第23回大会は、下馬評では最強のメンバーを誇りながら、前述のように新日鐵にプレーオフで敗れ、第24回大会も3位に甘んじ、初優勝への道は遠かった。

長い道のりの末の第25回大会での初優勝の時は、チーム力のバランスが取れ、理想的なチームに仕上がって実現した。サーブ部門、スパイク部門、ブロック部門のチーム成績は、いずれも2位で、個人賞の上位の選手はいなかったが、中位に金子、楊、大竹、泉水らが名前を連ねた。最高殊勲選手には楊が選ばれ、ベスト6には楊と大竹が入ったが、準優勝の新日鐵からの3名(真鍋、植田、中垣内)の方が多かった。

バルセロナ世代の活躍

1988年(昭和63年)のソウルオリンピックが終わる頃から、男子バレーボールの世界に次々とスター選手が登場してきた。いわゆる『バルセロナ世代』の選手たちである。

これらの選手は、次々に全日本入りを果たし、折からの空前のバレーボールブームに乗って、TVや雑誌などマスコミ等で取り上げられることも多く、人気の点 でも群を抜いていたが、実力の点でも群を抜いており、ミュンヘン世代に劣らない存在であった。総じて選手寿命も長く、第10回を迎えたVリーグ近くまで活 躍していた選手も多く、いまだに現役の選手も何人かいる。

主な選手をチーム別に列挙してみる。(カッコ内は、日本リーグ・Vリーグ登録年)新日鐵(現堺ブレイザーズ)では、植田辰哉(1987年/昭和62年~1997年/平成9年)、中垣内祐一(1990年/平成2年~2003年/平成15年)の二人に、ソウル五輪代表の真鍋政義(1986年/昭和61年~) もこの世代に加えて良いだろう。日本電気(現NEC)では、大竹秀之(1990年/平成2年~2000年/平成12年)、竹内実(NKKから移籍、中央大、1992年/平成4年~)、サントリー から荻野正二(福井工大附高、1988年/昭和63年~)、大浦正文(長崎商高、1988年/昭和63年~1996年/平成8年)、河野克巳(愛知学院大、1988年/昭和63年~1999年/平成11年)、佐々木太一(専修 大、1993年/平成5年~)、富士フイルムから青山繁(現東レ、法政大、1992年/平成4年~)、成田貴志(東海大、1992年/平成4年~2003年/平成15年)、南由紀夫(東海大、1992年/平成4年~2000年/平成12年)、東レから泉川正幸(日本体大、1992年/平成4年~2003年/平成15年)、旭化成から南克幸(法政大、1998年/平成10年~)、JTの栗生沢淳一(中央大、1987年/昭和62年~1997年/平成9年)、東レ、日新製鋼、豊田合成と移籍した松田明彦(大阪商大附高、1989年/平成元年~1995年/平成7年)など、数え上げるときりがないくらいである。バルセロナオリンピックには、これらの選手の中から植田(主将)、中垣内、大竹、荻野、大浦、河野、青山、成田、泉川、栗生沢、南(克)、松田の12名が大古監督のもとで戦い、6位に入賞した。

オリンピックと平均年齢

バレーボールがオリンピックの正式種目になった東京オリンピック以降の男子の成績と出場12選手の平均年齢および12名中初出場の選手の数を表にした。予選で敗退しオリンピックに出場できなかったケースについては、最終予選出場メンバーで比較してみた。

平均年齢では、メキシコ大会の23.0歳が群を抜いて若く、次いで東京、バルセロナの順になっている。また、メンバーのうち初出場の選手の数は、初めてオリンピック種目になった東京大会は別にすると、バルセロナ大会の12名全員が初出場選手であったことは特徴的である。

40年間の社会的背景の変化(例えば大学進学率の上昇など)も大きいので、平均年齢を一概に比較は出来ないが、メキシコ・ミュンヘン世代とバルセロナ・アトランタ世代の共通性が表から見て取れる。

バルセロナ大会を戦った主力が、4年後のアトランタの予選の最後でライバル韓国に逆転で出場権を逃がしたことは、バルセロナ世代にとっては残念なことで あったろうし、男子バレーのその後にとっても大きな影響を与えているような気がする。

開催年 開催地 成績 平均年齢 初出場
1964年(昭和39年) 東京 3位 24.1 12
1968年(昭和43年) メキシコ 2位 23 9
1972年(昭和47年) ミュンヘン 1位 25.8 3
1976年(昭和51年) モントリオール 4位 26.2 5
1980年(昭和55年) モスクワ 予選敗退 27 7
1984年(昭和59年) ロスアンゼルス 7位 26.1 9
1988年(昭和63年) ソウル 10位 26.4 8
1992年(平成4年) バルセロナ 6位 24.5 12
1996年(平成8年) アトランタ 予選敗退 27.6 4
2000年(平成12年) シドニー 予選敗退 29 6
2004年(平成16年) アテネ 予選敗退 27.1 10

男子は混戦、女子は再び日立

第25回大会で初優勝を遂げた日本電気(第26回大会からNECを登録名に変更)は、第27回大会で2度目の優勝遂げたが、各チームの戦力は拮抗して、混戦リーグが続いた。

特に、第25回リーグ以降、上位4チームによるファイナルラウンドの方式が始まったので、4強に残るための戦いが熾烈になり、大会を盛り上げていった。

第26回大会は、予選リーグ首位の新日鐵や連覇を狙ったNECを抑えて、富士フイルムが5年ぶりに優勝した。青山が最高殊勲選手とベスト6に選ばれたが、 蔭山弘道(法政大)、松本聡(法政大)、南由紀夫、金牧貴久(釜利谷高)清水克彦(東海大)らをセッター成田が司令塔としてあやつる、攻守にバランスの良いチームの勝利であった。第26回大会の新人賞は、内定選手の泉川とともに、松下電器の宮崎謙彦(中央大)が選ばれた。

混戦の男子に対して、女子は再び日立が王座に返り咲き、第24回大会(1990年/平成2年)から連覇を続けた。大林素子、中田久美、吉原知子(妹背牛商高)、福田記代子(八王子実践高)、多治見麻子(八王子実践高)、江藤直美(扇城高)など、相変わらず圧倒的な層の厚さで、打倒日立を掲げて挑戦するチームを次々と退け、第27回大会まで4連覇を達成した。

名セッターの中西千枝子や樫野幸子、本郷友恵、松下晃子(夢野台高)、中村和美(金沢商高)、佐伯美香(成安女高)を擁するユニチカが、一番の対抗馬であったが、日立の壁にいつも跳ね返されていた。

バックアタックを交え豪快に打ちまくる山内美加(由利高)のダイエーや、石掛美知代、高山佳代らのイトーヨーカドー、佐藤伊知子、大貫美奈子(共栄学園高)、矢野美紀(成安女高)らの日本電気も、ユニチカとともに、2位、3位争いに甘んじるのであった。

男女ともスター選手が次々に現れ、バレーボール人気はますます高まっていった。NHKや民放各局が競って国際大会の共催と独占放映を始めたのもこの頃からである。