Vリーグに至るまでのエピソード
第4章日立、驚異の連勝記録
新旧世代交代
スポーツの世界に限らず、高位安定を持続しながら世代交代を行うことは、極めて難しいことである。ビジネスの世界などでも、若い世代の登用に遅れをとり、「老害」に気がついたときは手遅れになっていた例も少なくない。
スポーツの世界では、世代交代を成功させることは特に難しいことである。一時代を築いたスーパースターの力は、ピークを過ぎてからも栄光の活躍が脳裏か ら消えないし、実績のない選手の可能性を秘めた伸び盛りの力を見極めることは難しく、多くの場合実績を見た結果から気がつくことが多いからだろう。
第7回大会(1973年/昭和48年)以来、圧倒的な力を発揮して5連覇を達成した女子の日立チームも、世代交代の遅れから第12回大会(1978年/昭和53年)から3年間苦戦を強いられた。特に、第13回大会では3勝7敗で、6チーム中4位に終わっている。
日立は、10戦全勝の完全優勝で5連覇を達成した第11回大会を、モントリオールオリンピック後に一時引退し、第10回大会は欠場した松田紀子、白井貴子 の金メダルコンビを復活させて戦った。結果として完全優勝を果たしたが、チーム事情はあったとはいえ、せっかく始めた若返り・世代交代は遅れる結果と なった。
しかし、3年間の雌伏の後、日立はさらに強いチームになって戻ってきた。第15回大会(1981年/昭和56年)から、誰も止められない連勝が始まったのである。
幻のオリンピック代表選手
日立が3年間苦しんでいた頃の1980年(昭和55年)にモスクワでオリンピックが開かれたが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、多くの 国が不参加をした。日本もこのオリンピックには参加しなかった。4年に一度しか開かれないオリンピックに2回以上参加できる選手は少ない。モスクワオリンピックに出場するはずだった石川嘉枝、水原理枝子、小川かず子(以上ユニチカ)、清水睦子、奥嶋桂子(以上カネボウ)、吉永美保子(日本電気)、池知昌代 (富士フイルム)、古橋美知子(日本体大)は、幻のオリンピック選手に終わっている。(残りのメンバーの横山樹理、江上由美、広瀬美代子、三屋裕子は、前 後のオリンピックに出場している。)
前年のプレオリンピックで旧ソ連に完勝で優勝し、モントリオールオリンピック(1976年/昭和51年)に続く五輪での連覇は確実視されていた。それだけに当時の小 島孝治監督率いる全日本女子チームのショックは量り知れないものがあっただろう。
2002年(平成14年)の夏に、茨城県ひたちなか市総合体育館で、この永年の無念を晴らし22年ぶりに決着をつけようと、当時の日ソ女子バレーボールチームが対決する試合が某テレビ局の企画で実現した。今ではすっかり主婦業、母親役などが身に付いた懐かしい当時の日・ソの選手たちが集まって対決し、全日本チームが旧ソ連チームを一蹴するというオールドファンにとっては楽しいイベントであった。
試合後に涙する選手たちを見て改めて、絶頂期に自分たちの力を発揮する場を奪われ、青春のすべてを賭けて厳しい練習に明け暮れて目指した夢と目標を失っ た彼女たちの無念さを思うと、スポーツの世界に政治が介入する理不尽さを感じずにはいられない。
連勝記録
話題を日本リーグに戻そう。
リーグ戦で連勝を続けることは簡単ではない。短期決戦のトーナメント戦と違い、調子の波はどのチームにもあるし、選手個人にもある。また、クジ運に恵まれ て苦手と対戦しないということもない。また、冬季に長期にわたって全国を転戦する過密なスケジュールの大会だけに、風邪による発熱やちょっとした下痢など による体調不良は避けられず、さらにチームで一人や二人が捻挫や肉離れなどの怪我で戦列を離れることも必ずといってよいほど起こる。
日立は、この難しいリーグでの連勝の道を、他を寄せ付けない圧倒的な強さで再び走り始めたのである。それまでの連勝記録も日立(当時は日立武蔵)自身 が作ったもので、第8回大会の第5戦目の対ユニチカ(当時はユニチカ貝塚)戦から第12回大会の第2戦でカネボウに敗れるまでの「37」というもので あった。
ちなみに、男子の記録は、第18回大会の第5戦の対日本鋼管戦から第20回大会第7戦の対日本鋼管戦まで続けた富士フイルムの「45」が第1位で、次いで 新日鐵が第12回大会の初戦の対松下電器戦から第15回大会の初戦の対住友金属戦までの「35」となっている。
日立の連勝記録は、第15回大会(1981年/昭和56年)の初戦で、富士フイルムを3-0で下すところからスタートした。筑波大からの三屋裕子に加え、 小高笑子(川越商高)、中田久美(NHK学園在学中)らがこの年から戦力に加わり、1戦ごとに自信と力をつけていった。
第10回大会でデビューし、新人賞に輝いた江上由美(松蔭高)が主将としてチームの中心となり、第14回大会の新人賞の杉山加代子(龍ヶ崎二高)や6年目 の森田貴美枝(薫英高)のレギュラー陣に加え、前回大会まで活躍した森田美津子(妹背牛商高)や吉川良子(中村高・第13回大会新人賞)を控えに回す層の厚さは他チームの垂涎の的であり、対抗するすべもなかった。追いかけるはずの東洋紡は、セッターの久繁恵津子(安田女高)が初日に右足首を捻挫、ユニ チカは攻守の要の広瀬美代子(舞子高)が右足首を骨折してそれぞれ戦列を離れ、日立の独走による完全優勝を許したのであった。
失セット「0」の完全優勝
新旧の力のバランスが取れた日立は、次の第16回大会(1982年/昭和57年)では戦前から独走が予想され、「連覇は確実。2位争いは東洋紡かユニチカか」と公式プログラムでも予想される状況であった。
この予想通り、初戦の久光製薬戦から快勝を続け、とうとう21試合全てをストレート勝ち、失セット「0」という前代未聞の「完全優勝」を遂げた。
日本リーグ、Vリーグでは、全勝優勝を「完全優勝」と呼んでいるが、この年の日立は全勝はもちろん、1セットも落とさなかったパーフェクトぶりで、これ以上はない「記録的な完璧優勝」であった。
この日立を支えたのは、ブロック賞を取った江上主将を中心に、3年目の杉山、2年目の三屋、中田らの全日本メンバーたちであった。前回大会では、中盤戦で 東洋紡とユニチカにフルセットまで粘られたりしたが、伸び盛りの若い選手たちはすばらしい成長を遂げていた。特に、三屋はそれまで白井貴子が持っていた スパイク決定率52.3%を更新する54.6%でスパイク賞を受賞し、チームに大きく貢献した。また、17歳になったセッター中田も、高い位置でのプレーや 速いトスで天才セッターとして着々と成長していった。中田はブロックでもリーグ8位にランクされる活躍を早くも見せた。
ベスト6には、江上、三屋、杉山、中田、小高、森田と全員日立から選ばれた。
日立は、第15回大会の13戦目の久光製薬戦にストレート勝ちしてから失セット「0」を続けていた。その間、30試合連続ストレート勝ちしたことになり、どこが 日立を倒すかの前にどこが日立から1セットを取るかという無敵ぶりであった。 この連続失セット「0」の記録は、第17回大会の終盤の第16戦目に東洋紡が第2セットを15-13で取って終止符を打つが、この大会でも日立が失ったセットはこの一つだけで、第17回大会も21戦全勝の「完全優勝」で3連覇を成し遂げた。
この年のベスト6も、前年と全く同じ顔ぶれの日立の6人が独占した。
三屋は、前回に引き続き、この大会でもスパイク賞に輝いたが、この時の57.4%は現在でも破られていない大記録である。
なお、日本電気(現・NEC)が第13回大会で日本リーグに昇格デビューし、徐々に力を付けていった。
「日立」の連勝に立ち向かったスターたち
第18回大会(1984年/昭和59年)でも日立は全勝優勝を果たし、連勝記録を伸ばした。この大会からセンターの三屋、江上が引退したが、新 たに大砲宮島恵子(八王子実践高)が加わった。新人の宮島に対する期待を山田監督は、「あのロス・オリンピックでハイマン、クロケット、郎平と超ド級の エース達の放つ豪快なスパイクの大音響の中で、日本の音なしスパイクに悔しい思いをした。この日本リーグでは、まず第1に、何が何でも音のする大砲を育て たい。この期待を担うのが宮島だ。(中略)日立本来のコンビバレーから、宮島は切り離して戦わせることにする。(後略)」と大会前に書いている。
この期待に応えて、宮島は新人賞をとるとともに、ベスト6にも選ばれた。前回までの江上、三屋、森田に代わって、主将の石田京子(薫英高)、武内広子(八 王子実践高)の両センターも選ばれ、またしても日立がベスト6を独占するのであった。
連勝を続ける日立に対して、他チームの選手たちも必死に立ち向かった。
第15回大会、第16回大会で準優勝のユニチカでは、第13回、第14回大会連覇時のメンバーであるセッターの小川やレシーブの名手広瀬、サウスポーの水 原、西川美代子(博多女商高)に加え、樫野幸子(志知高)、本郷友恵(金沢商高)らが、伝統の拾ってつなぐバレーで頑張ったが、明らかに世代交代の谷間 に入っていた。第17回、第18回大会で準優勝の東洋紡では、サウスポーの田淵良子(柳川高)やレフト砂田明子(八頭高)、エース松並早苗(四天王寺 高)、好守の北井邦子(大阪女短附高)らが活躍した。松並は、第16回大会の新人賞、第18回大会の敢闘賞、田淵も第17回大会の敢闘賞、北井は、第17 回、第18回と連続してレシーブ賞を取っている。
チーム数が6チームから8チームに増えたこともあって、新興チームも台頭して力を伸ばしてきていた。第13回大会で昇格した日本電気(現NEC)に加え、 第14回大会の日立茂原、第15回大会の久光製薬、電電神戸、第16回大会のイトーヨーカドー、第19回大会のダイエーなどである。
特に、日本電気、イトーヨーカドー、ダイエーは、外国人選手の高さとパワーをチーム力の強化に有効に活用して、みるみる上位を脅かす存在になっていった。 イトーヨーカドーのセシリア・タイトは、第17回大会から新設された猛打賞を取って、チームの3位に大きく貢献した。第18回大会では、日本電気のロー ズ・メジャーズがやはり猛打賞をとり、チームを3位に引き上げた。
その他では、イトーヨーカドーの置田佳子(四天王寺高)が第18回大会でサーブ賞を、同大会で久光製薬の西沢知子(熊本女高)がブロック賞を取って、記録に名を残している。置田は、第16回大会の新人賞にも選ばれている。
日立、敗れる
第19回大会(1985年/昭和60年)は日立の2度目の5連覇がかかっていたが、これを疑うものはなく、興味はもっぱら、第15回大会から続いている連勝を止めるチームはどこかにあった。
この第19回大会からデビューした選手に、日立の大型センターの川瀬ゆかり(高崎商高)、イトーヨーカドーの甲斐千保(成安女高)、益子直美(共栄学園 高)、ユニチカの名セッター中西千枝子(博多女商高)、カネボウの大谷佐知子(四天王寺高)らがいる。
大谷は、中田久美とともに15歳の中学3年生で全日本入りした経験を持つ大型新人で、各チームの激烈な争奪合戦の末にカネボウからデビューしている。期待に違わず、猛打賞をこの大会で獲得した。
しかし、最大の話題は、この大会が日本リーグデビューとなったダイエーチームであった。創部わずか3年で日本リーグ昇格を決めたスピード振りであった。ロサンゼルスオリンピック銀メダリストエースのリタ・クロケットとフロー・ハイマンを擁し、センター松沢緑(順心女学園高)、レフト梅津一美(八王子実 践高)、セッターで主将の男澤和江(角館南高)、ライト小野弘美(習志野高)らが米田一典監督に率いられ、昇格の勢いをそのまま持ち込んで、台風の目と なっていた。
そして、とうとう昇格したばかりのこのダイエーが日立の連勝を止めたのである。
日立は、4戦目に当たる1986年(昭和61年)1月19日にダイエーをストレートで圧勝し、連勝を88に伸ばしていた。奇しくも、次の第5戦目も同じカードが組まれていた。
1月24日に松江市総合体育館で始まった運命の一戦は、両外人の活躍でダイエーが15-7で先取して始まった。第2セットは、日立が15-1とワンサイ ドで取り返したが、第3セットは16-14の接戦を制してダイエーが取った。第4セットは日立が15-7で取って、決着はとうとうファイナルセットにも つれ込んだ。最終セットはダイエーは両外人抜きで戦い、15-10で勝って、日立の連勝記録をストップさせるという大金星を挙げた。
この試合中、ダイエーのハイマンは途中交代しベンチにいたが、長いラリーが続く最中に突然倒れ、松江赤十字病院に運ばれた。そしてダイエー勝利の 報せを待たずに、そのまま息を引き取るという痛ましくも衝撃的な事件が起こった。ハイマンはもともとマルファン症候群という先天性の疾患を持っていて、 その日も体調は優れなかったが、強敵日立との対戦ということで無理をしたらしい。まさに命を掛けて女王日立の連勝を止めたハイマンの悲劇は、「日立敗れる」の報とともに、日本中で大きく報じられた。
なお、これ以降、日本リーグの全試合会場にドクターを常駐させることが義務付けられた。
ついに6連覇達成
連勝はダイエーに止められたが、第19回大会はこの1敗だけで、日立は2位のダイエー以下を大きく引き離してV5を達成した。3年間日立の選 手が独占したベスト6に、ダイエーの小野とスパイク賞のローズ・メジャーズ(米・日本電気)が選ばれた。また、ブロック賞をイトーヨーカドーの新人、石掛 美知代(氷上農高)が受賞した。
前人未到の6連覇のかかる第20回記念大会(1986年/昭和61年)で、日立は大林素子(八王子実践高)、高橋有紀子(同)、藤田幸子(松蔭高)ら、 5人の新人をデビューさせた。大林と高橋はいきなりベスト6にも選ばれる活躍を見せ、猛打賞の杉山加代子や小高、宮島、武内、中田らも相変わらずの活躍 で、2位の日本電気に星2つの差をつけて6連覇を達成した。
大林は、スパイク部門で2位、ブロック部門で8位に食い込むなど、早くも大器の片鱗を見せていた。高橋も、サーブ部門で8位となり、この年の新人賞を取った。
この大会の日立は、ブロックのチーム成績が6位と振るわなかったが、サーブ力とセッターの中田が圧倒的な層の厚さを誇る攻撃陣を使う形で他チームを圧倒した。
2位に入った日本電気は、スパイク賞のローズ・メジャーズに加え、ジャンプを誇るレフト山下美弥子(六日町女高)やセンター田中美千代(村上女高)などが活躍し、着実に力をつけてきていた。
イトーヨーカドーに斎藤真由美が練馬中の中学生として登録され、将来を大きく期待されたのも第20回大会であった。