Vリーグに至るまでのエピソード
第7章日本リーグからVリーグへ
Vリーグ構想の検討
1991年(平成3年)、サッカーのプロリーグ「Jリーグ」が誕生した。
ちょうど日本中がバブル経済に沸きかえる中にあったこともあって、自治体がこぞってJリーグチームの誘致を行い、開幕の1993年(平成5年)の前後まで、空前のJリーグブームとなった。
こうした流れの影響もあり、またバレーボール自身も多くのスター選手人気に沸く中で、将来のプロ化を視野に入れた新しいリーグの構想が検討され始めた。
前章で紹介した、「チーム愛称」「チームロゴ」をつけることも、この構想の中で行なわれた。
いろいろな検討が行なわれ議論もされたが、一時的なブームに乗っかって十分な準備もなくプロ化を行なうのは問題だとの結論になり、プロリーグの発足は見送られた。
し かし、長く続いてきた「日本リーグ」を発展的に解消して、1994年(平成6年)から「Vリーグ」という名前のリーグが、新しくスタートすることが決まり、1994年(平成6年)年6月6日に東京・原宿クエストホールでの「日本バレーボール21世紀構想記者発表会」の席上で、「Vリーグ」の発足が正式に公表された。
プ ロリーグという形は見送られ、代わってバレーボールの「プロ事業化」という言葉で説明された内容は、「組織のプロフェッショナル化」「選手のプロフェッショナル化」「運営のプロフェッショナル化」の3つの柱の改革を行なって、21 世紀を目指すというものであった。
21世紀にもメジャースポーツであり続けるために、プロ化のスタートを高らかに宣言した、とメディアは報道した。
Vリーグスタート
第1回Vリーグは、1994年(平成6年)12月17日に男女同時に開幕した。
開幕に当たって、松平康隆会長(当時・現名誉会長)は、次のメッセージを出している。
いよいよVリーグ発進の日がやってきました。
1967年(昭和42年)、日本リーグの創設を思い起こすと感慨深いものがあります。今から27年前、日本リーグは、三つの目的を掲げてスタートしました。まず第一にバレーボールの普及と人気の向上、第二に全日本チームの強化、第三が独自の活動で収 益をあげ、それを強化費にあてていこうという三点でした。
この目的はりっぱに達成することができました。日本で最も競技人口の多いスポーツになり、男女ともにオリンピックの金メダルを獲得、運営面でも寄付に頼らず、バレーボールを愛してくださる多くの方々の協力による収益で賄うことができるようになりました。
このように日本リーグの果たした役割は非常に大きいものでした。しかし、世界のスポーツ界は激動しています。アマチュアの垣根は崩れ、スポーツの最高峰はプロだと言う時代が訪れました。バレーボール協会も目前に迫った21世紀を見据え、真のプロスポーツとしての自覚、意識、実態が伴った組織、運営に着手しな ければなりません。もしここで、将来のプロ化という方向が打ち出せなければ、バレーボールはメジャーからマイナーに転落せざるを得ないでしょう。
Vリーグの設立は日本リーグの発展的解消だと受け止めていただきたいと思います。Vリーグと日本リーグの違いはまず意識です。プレーヤーも運営者も意識革命 が不可欠です。Vリーグではサービスをしっかりと打ち出していきます。サービスこそプロの生命だと言うことを自覚して、ファンやメディアに積極的に対応 し、要望にお答えしていきます。技術の向上に努め、エキサイティングなゲームを提供するといった大きなサービスから、会場のアナウンスにも細心の配慮が行 き届くと言ったきめ細かいサービスまで、徹底してサービス精神を貫きたいと考えています。
また、プロ契約を結んだ外国籍選手の参加を1チーム2名まで認めます。世界の第一線級選手の参加で、よりランクアップしたゲームが楽しめるようになります。日本人選手にも大きな刺激になり、レベルアップに果たす効果は計り知れないでしょう。
私たちはVリーグを設立し、一生懸命変わろうとしていますが、乱暴なプロ化、拙速なプロ化は避けなければなりません。焦らず、ていねいにみんなで準備し、行動を開始しました。その姿を見守ってください。そして応援をよろしくお願いいたします。
Vリーグの10年・企業チームの試練
Vリーグ発足の前後から、日本経済はバブル崩壊による未曾有の長期不況に突入していった。
企業に支えられて発展してきた日本のスポーツ界にとって、特にチームスポーツにとって、厳しい冬の時代が待っていた。
下表は、日本リーグ時代からの企業チーム(日本リーグに籍をおいたことのあるチーム)の休部・廃部・統合・移籍の状況を表している。皮肉にも、Vリーグ発足後に多くのチームが、休部・廃部に追い込まれ、統合や移籍をしてきた状況が良く分かる。
特に、女子でその傾向は著しく、Vリーグ発足の時の8チームのうち、現在も同じチームはNECとデンソーだけという変わり様である。また、バレーボール界の名門中の名門と言われたチームの休部・廃部も相継いだ。男子の日本鋼管や富士フイルム、女子の日立、ユニチカなど、リーグで何度も優勝し、オリンピック選手などを輩出して日本バレーを支えてきたチームが消えていった。
Vリーグの10年・・着々たる歩み
発足当初の予想をはるかに越える厳しさの中で、Vリーグは試練に苦しんできたが、21世紀構想として打ち出した「組織」「選手」「運営」のプロフェッショナル化は、少しずつではあるが、進んできた。
「Vリーグ機構」という組織が協会内の一本部として活動する形が定着したし、企業チーム以外に「堺ブレイザーズ」「シーガルズ」「茂原アルカス」などが誕生した。堺ブレイザーズとシーガルズは、それぞれバレーボールを事業の柱とする株式会社のチームである。
また、各チームの専任スタッフ体制も飛躍的に充実してきている。会社の部長と兼任することの多かったバレー部長に代わって、専任の部長やゼネラルマネージャーをおくチームも多くなってきている。
プロ選手も徐々に増えてきた。外国籍選手はほとんどがプロ契約選手であるが、日本人選手の中にもプロ宣言をして、個人事業主としてチームと契約を交わす選手が現れ始めている。
運営面では、第10回大会から「ホームゲーム制」の試みが始められた。全国津々浦々を転戦して普及面でも貢献することを狙っていることもあり、まだ全試合を「ホームアンドアウェイ」で行うところまでは行っていないが、第11回大会では、約1/3の試合をホームゲーム方式で行った。
また、試合数を大幅に増やすことによって、強化と普及の両面で成果をあげることを考え、第11回大会からは、男子8チーム4回戦総当たり(レギュラーラウンドは、全112試合)、女子10チーム3回戦総当たり(同、全135試合)と、40%の増加を図っている。
さらなる飛躍に向けて
2004年(平成16年)に開かれたアテネオリンピックに、女子は2大会ぶりに出場し、5位に入賞した。しかし、世界との壁は厚く、かつて2度の金メダルを獲得し、東洋の魔女と恐れられた面影は消えている。
男子にいたっては、3大会続けて予選敗退し、再建に向けての呻吟が続いている。
2世界のバレーボールの普及は目覚しく、FIVBの加盟国も220(2017年/平成29年)にもなり、国連加盟国193(2017年/平成29年)を上回るほどになっている。アジアの国々のレベルアップも目覚しく、かつてのように中国と韓国だけを視野に入れておけば十分という時代ではなくなって いる。
下図は、日本リーグ以降の観客動員数の推移グラフである。
実力も人気も下降線をたどっている事は、残念ながら事実であろう。
しかし、かつて栄光のスポーツであって一時低迷していたスポーツが、再び輝きを取り戻した例をアテネオリンピックでもいくつか見た。
競技人口や国民に広く親しまれている点では、バレーボールはまだまだ上位にあるスポーツである。
日本リーグやVリーグをスタートさせた時のあの高い志を忘れず、さらに飛躍を目指して、選手も関係者も努力を続けている。